長岡まつり たむけの花

長岡花火のたれ幕が駅の中に。
気がつけば、もう明日、明後日が長岡花火です。
長岡祭りは本日8月1日から。
長岡花火は8月2日3日の夜。
第二次世界大戦の長岡空襲の慰霊の花火、という意味があるので、曜日にかかわらず日付は動かないお祭りです。
今年は平日の開催になりますので、週末にかかった昨年までとは違って、
街の中も落ち着いているように感じます。

用があって市役所に来てみると、
市役所の正面に大きくたれ幕が掲げられていました。
8月1日は「長岡市恒久平和の日」
非核平和宣言都市 長岡市
花火ばかりが有名ですが、これが長岡まつりの趣旨、ということですね。
1945年8月1日、長岡市は空襲で市の中心部が大きな被害に遭いました。
夜10:30頃から日付が変わる頃まで続いた空襲で、中心市街地の8割が焼かれ、
1470人の人が命を失いました。
恐ろしい事です。
私の子どもの頃の長岡の記憶にも、その空襲の跡らしきものが感じられる思い出がいくつかあります。
小学校の裏手の敷地内に撤去し残りのコンクリートの建物の土台のようなものが結構広い範囲で顔を出していて、そこを友人たちと掘って遊んでいたら、掘れば掘る程、黒く焦げたようなものがどんどん出て来ました。
掘り出したものを先生に見せに行ったら、「あった場所に埋めて来なさい」と言われたのですが、その時の先生の、怒るというよりは困惑したような恐ろしげな表情がいまだに記憶に残っています。
埋め戻したあと、誰が言い出すでも無く、皆でその辺に咲いていた雑草の花を摘んで上に置きました。
何故そのようにしたのかわかりませんが、子どもたちなりに、先生の表情から何かを感じての事だったかと思います。
そのへんに工場があって空襲が酷かったという話は、当時の大人からも聞いた事がありましたが、あまり実感がなかったのです。今、あらためて調べてみると、やはりその一帯に空襲のターゲットになった軍事工場があって、小学校の校舎も空襲で全焼しているようです。私たちが見たのは、その焼け跡だったのかなと思います。
また、当時住んでいたところの最寄りの駅の横の空き地には、雑草に埋もれるように簡素な墓標のようなものが立ててあり、暗くなるとそこを通るのがちょっと怖かった記憶があります。先日、久しぶりにその駅に行った折に見てみたら、周りは整地され、きちんとした石の慰霊碑になっていました。
その頃は、戦争など、もう過ぎ去った遠い昔の事のように感じていましたけれど、
実は、まだその跡が身近に生々しく残っていたのだなと思います。
私が生まれてから今までの年数より、戦争から当時(私の子どもの頃)までの年数の方が短かったのですから、
あたりまえといえば、あたりまえなのです。

市役所の用事を済ませて出て来ると、小学校低学年くらいの小さな子どもさんが駆け寄って来て、
「長岡空襲で亡くなった人のために、お花を手向けて下さい」
という、子どもの口から出るのを聞くとちょっとびっくりするような言葉とともに、この菊を手渡されました。
これは断る訳にもいかないと思い、
市役所のロビーの一角にもうけられた献花台に向かいました。

お葬式のように、台に置いて手向けるのではなく、「生ける」方式の献花でちょっとびっくりしました。
でも、たしかにこの方がお花も保つし、きれいです。
前には空襲で亡くなられた方々のお名前が。
ほんとうにたくさんいらっしゃるのだ、ということを実感します。

生け花の会の方達主催の献花ということです。なるほど。
訪れる人は皆、お花を一輪生けては、しずかに手を合わせていらっしゃいました。
長岡祭りでは、このような行事も行われているのだと、初めて知りました。
今夜は、空襲の時間10:30に、慰霊の花火「白菊」が長岡の空に上がります。
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