明和義人

古町通りを通ったら、こんな幟が通りの両側に見渡す限り並んでいました。
「明和義人祭」というのが、8月24日(月曜日)に行われるようです。

この通りにあるデザイン学校の生徒さんが描いたという、こんな絵が、紙芝居のように通りの両側に。
「明和義人祭」は、1768年(江戸時代の明和5年)に起きた、「新潟明和騒動」という当時の新潟の町民達が起こした一連の出来事に由来しています。単に「暴動」というような一言で単純に言い表せないような出来事なので、ご興味のある方は調べてみてください。「新潟樽きぬた〜明和義人口伝」(著者は、大河ドラマ「天地人」の原作者の火坂雅志さん)という小説もあります。
この「新潟明和騒動」のそもそものきっかけが、当時新潟の町を治めていた長岡藩が課した重税なので、このお祭りにとってたぶん「長岡藩」は敵役。
長岡出身の私にとっては、なんとなく申し訳ないような残念なような気持ちになってしまうところなのですが、せめてこの出来事を語り継ぐお役に立つように、と、書いてみました。
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新潟祭り

この日は新潟祭り二日目。
夕方、通りがかった古町一番町の入り口で、白山神社の鳥居に向かって万代太鼓が演奏していました。
人混みも無く、街の人たちが店先に椅子を出したりしてのんびりと楽しんでいます。
こういう地元な感じのお祭り、良いなあと思いました。
(ちなみに、お祭りの一日目は民謡流しをやっていたようです)

道々、休憩中の万代太鼓や御神輿とすれ違って、
街の真ん中の六番町まで行くと、いくつかの御神輿が気合いを入れていました。
たぶん昼の行事で街を一周して来た後、これから白山神社に向かうために気合いを入れ直しているといった感じ。
驚くばかりのパワフルさです。

帰り道に、白山神社に先程の御神輿が集結している所を見る事が出来ました。
宮入り、という行事です。

そうこうするうちに花火が上がり始めたので川の方へ。
長岡の花火と違って、打ち上げ場所がすごく近い。
花火の一つ一つの玉は小さいのだと思いますが、近いので細かい所までよく見えて面白かったです。
火の粉が火の粉としてはっきりくっきりと見えます。
長岡の花火を見た後に印象に残るのが「迫力」だとすると、新潟の印象は「繊細さ」や「彩り」という感じ。
新潟祭り3日目。
この日は、昼の行事も見てみようかという話になり、暑い中でかけました。

いつもの道に、蝉時雨。
痛いほどの日差し。
今年の夏はほんとうに暑かった。

炎天下を、新潟祭りの祭り行列が行きます。
新潟の祭りと言えば、「万代太鼓」は欠かせません。
たぶんプロかと思われる団体から、企業、小学校まで、たくさんのグループがあって、お祭りのパレードの先頭を何台もの太鼓の山車が行きます。
沿道から拍手。

続いて住吉行列、と呼ばれる古式ゆかしい行列が行きます。
これは、御神輿が乗った御座船。
港町新潟らしく、がっしりとした本物の船の形をしています。

住吉行列の中でも大人気の、天狗さま(猿田彦)とお獅子。

この日の夜も花火がありました。
ぶらぶら行って適当に眺められる気楽さが、新潟の花火にはまだ残っています。
今年は新潟祭りとともに暑い夏も終わったような感じで、
その後、お盆に入って雨がちな新潟。
朝夕は少ししのぎやすくなりました。
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長岡花火

長岡花火の名物、フェニックス。

高校からの友人が誘ってくれて、会場近くの建物の屋上から拝見しました。
特にフェニックスは、こんな風に一望したのは初めて。
楽しませて頂きました。

最後にフェニックス(不死鳥)の形の花火がパーッと羽を広げて終わるのが恒例。
はじめて見た時は、この火の鳥の群れにいたく感動したものです。
2004年の中越地震から昨年で10年。
中越地震からの復興を祈念して、地震の翌年から揚げられるようになったのが、このフェニックスです。
フェニックスは、それからの年月の間に、だんだん数が多くなって横に広がって行ったり、一部分大きくなったり、元に戻ったり、という変遷があり、長岡の人々は、その変化をなんとなく気にしながら、毎年見守って来ました。
当初、中越震災の辛かった経験を思い出して、ジュピターを聞くと涙が出る、という話もよく聞きました。
しかし、10年経った今、中越震災の影は街の中にはもう何も感じられなくなりました。
10年の歳月とともに、中越地震の記憶は遠くなって行く。
でも、それは、自然なことで、
悪い事でも無いと思います。
これから、フェニックス花火はどうなっていくのでしょうか?。
今年羽を広げたフェニックスは9羽だったようです。
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